耳がよく聞こえないの
小学2年生の女の子が、耳が聞こえにくいことを訴えて、総合病院の耳鼻科を訪れました。名前をアイちゃんとします。母は仕事が忙しく、病院には近所に住んでいる祖母が一緒でした。
聴力検査のほか脳波やMRIなど、いろいろな検査が行われましたが、
とくに体の異常はありませんでした。
最初、アイちゃんは右の耳が聞こえにくいといっていたのに、次の時には左が聞こえにくいというなど、矛盾がみられました。
ほかにもアイちゃんは、鼻血や腹痛でよく病院へ連れて行ってもらいました。
そのつど検査が行われましたが、とくに原因ははっきりしません。
どうやら、こうした体の症状には、心理的なものが関係していると思われます。
耳が聞こえにくい場合は、心因性難聴と呼ばれます。
ワガママをいわない、とてもいい子
アイちゃんは、耳鼻科から、精神科の臨床心理士であるボクのところに紹介されてきました。祖母は上品で優しそうな方でした。
アイちゃんは、ボクの顔色をうかがいながら甘えたような仕草を見せました。
アイちゃんは一人っ子で、ふだんは毎日塾に通い、
無茶をいわず人に合わせていくような、とてもいい子です。
母は家で美容室を経営し、父は単身赴任で1週間に1度帰ってくるという生活を続けています。
母は、勝気で仕事熱心。店と家事を切り盛りし、夜遅くまで働いています。
欧米的な育児論を主張し、小さいうちから子どもの人格を認め、
大人と対等に扱ってきたとのことです。
「でも、それって、子どもを子どもらしく扱うということが苦手なんでしょうね。」と
祖母は、自分の娘である母のことをそう話しました。
カオナシの絵
アイちゃんと面接をしました。絵を描くことが好きで、指示をしなくても次々描いてくれます。ぬいぐるみがたくさん描かれました。自分のベッドの周りには、
小さい頃からのぬいぐるみがいっぱい置いてあるそうです。
それぞれに名前をつけて、そのうちの気に入ったぬいぐるみと一緒に寝ていました。
次に、人の絵を描いてもらいました。女の子の全身像をかわいく描きましたが、
なぜか顔には目鼻口など内部が描かれず、いわゆるカオナシです。
その代わり、髪型にこだわり、塗り重ねるように時間をかけ丹念に描きました。
上手に描かなければと意識しているようでした。
こころのメッセージ
さらに話を聞くと、アイちゃんは、小さな声で話すおばあちゃんより、
大きな声のお母さんの方が聞こえにくいといいました。
祖母は優しい人でしたが、母は仕事に追われて
いつもイラついていました。
「片づけなさい」、「早くしなさい」などと注意したり、
しかりつけることが多くなっていたようです。
心因性難聴という症状は、イラついて怒った母の声を聞きたくないという、
アイちゃんのこころのメッセージだったのです。
人物画に目鼻口を描かず髪型にこだわったのも、
美容師である母との関係を示していたものと思われます。
アイちゃんにとっては、ぬいぐるみが夜遅くまで仕事をしている母の代わりだったのでしょうか?
また、いい子でいることが、イラついている母を困らせない方法だったのかもしれません。
がんばったお母さん
翌々日、母に病院に来てもらいました。愛想よく、とてもしっかりとした人でした。
アイちゃんの訴えやこころのメッセージの話をすると、
うすうす気づいていたようで、涙ぐみながら自分の思いや
夫婦の関係などについて話してくれました。
母は自分の店を町一番の美容院にするという夢を持っていましたが、
「家事や子育てがおろそかになるようなら店を閉める」という約束を
夫との間で交わしていました。母はひとり忙しく頑張り続けましたが、
夫は家事や育児に無関心であるばかりでなく、何かと批判的でした。
気がつけば、店ではお客さんにいい顔を見せ、家では夫に気をつかい、
子どもには指示や注意ばかりになっていました。
そんな生活に、母が疲れてきていたのも事実でした。
最後の面接
その後、母は進んで何度か面接にやって来ました。自分の気持ちをすなおに語り、頑張りすぎてきた自分にブレーキをかけ、
徐々に穏やかさを取り戻していきました。
それと並行して、アイちゃんの耳の聞こえにくさもなくなっていきました。
最後の面接の日、母から次のような話がありました。
ある土曜日、些細なことで、夫婦の間でいい争いがありました。
父が母を責め、最後は母が折れます。母にすれば、いつもの...という感じでした。
アイちゃんも、いつものように、一人遊びをしながら聞いていました。
母は「はあ~」とため息をついて、笑いながらいいました。半分は、冗談のつもりでした。
「今度ね、お父さんが大きな声で怒ったら、市役所へ行って離婚届をもらってくるわ。
...そして、次また怒ったら離婚届に印鑑を押すね。
...そして、その次、怒ったら今度はそれを市役所に出すことにするわ」
アイちゃんは、神妙な顔つきで聞いていました。
アイちゃん、叫ぶ!
翌週の日曜の朝、単身赴任から帰ってきていた父が、何かの拍子に大きな声を出しました。
それを聞いたアイちゃんは、あわてて台所へ
飛んできました。そして、母に向かって叫びました。
「お母さん! 今のお父さんの声は怒ったんじゃないからね!怒ったんじゃないよ! 怒ったんじゃないよ!...」
母は、涙を浮かべながら
「これがこころのメッセージなんですね」と話されました。
監修:臨床心理士 衣斐哲臣